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花尊し

花尊し

宋襄の仁

宋襄の仁
明治37年(1904)日露戦争下、
上村彦之丞がロシア艦隊三隻の内、一隻を轟沈し残る二隻の追撃をせず、沈めた巡洋艦の乗員救助に当った。
そのことを後に知った参謀秋山真之は
「あの二隻は遁がすべきではなかった。戦略目的を逃がし敵兵を救うは宋襄の仁だ!」と言って上村を批判した。


宋襄
宋襄は宋の襄公、後の王朝の宋よりずっと前の殷の末裔である。
襄公には目夷(子魚)と言う庶兄がおり、襄公は位を目夷に譲ろうとしたが断られ宰相とした。

襄公は桓公亡き後の斉国内の騒動を鎮圧したことに自信を得、会盟を主宰して自らも覇者への道を歩き始めたが、
これを快く思わなかったのが楚の成王である。
襄公は会盟の席で楚により監禁され、盟主としての面目丸つぶれ、威信は失墜した。
襄公は屈辱を晴らすべく楚の盟下にあった鄭を攻める。目夷はこれを諌めたが襄公は聴かなかった。
楚の成王は軍を発し鄭の救援に向かった。

泓水の戦い(おうすいのたたかい)
楚軍は首都郢を発し、襄公はこれを受けて決戦の地に宋国内の泓水のほとりを選んだ。(春秋 BC 638年)
やがて楚軍が現れ、川を渡り始めると宋の宰相目夷は
「まともに戦えば勝ち目はない。楚軍が川を渡りきって陣を完成する前に攻撃すべき」
と進言した。
しかし襄公は
「私は亡国の子孫ではあるが、君子は人が困窮している時に付け込んだりはしないものだ」
と、正面から正々堂々と戦う王者の戦いを主張し、目夷を退け大敗を喫した。
襄公自身も矢傷を負い2年後に亡くなっている。

このことから、敵に対する身の程知らずで分不相応な無用の情け、時宜を得ていない憐れみのことを宋襄の仁と呼ぶ。

宋は殷の末裔の国であり、かつての統一王国の血をひいている、という自負と誇りが襄公の理想主義の根底にあったといわれるが、
当時の宋と楚は、殷王朝以来の古例を重んじる国家として著名で、
襄公が楚軍の渡河を待ってから双方が陣立てをおこなったのも、その古例に則っただけに過ぎないとの説もある。


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